前書き:この物語があなたに届けたいもの
人は、恩を受けると返したくなる「返報性の原理」に従いがちです。そして、一度下した判断や立場を変えたくないという「一貫性の原理」もまた、行動を縛る強い心理です。
この二つが組み合わさると、「正しさ」が巧妙に誘導されてしまうことがあります。
今回は、渡辺が“正義”を疑うことから始まる物語です。
それは、自分の中の「信じたい気持ち」と「返さねばならない義理」がぶつかり合う瞬間でした。
本編:第七話「誘導された正義」
十二月の薄曇りの空が、アレトスワークス本社の大きな窓を通して会議室を鈍い光で照らしていた。壁一面のホワイトボードには「CSR戦略2024」と書かれ、その下に複数の付箋が貼られている。
「それでは、来週のCSR支援案件について詳しく説明させていただきます」
広報責任者の大塚が、手元のタブレットを操作しながら、プロジェクターに資料を映し出した。画面には「東北復興支援プロジェクト Phase3」というタイトルが表示されている。
CSR──企業の社会的責任。近年、企業価値を測る重要な指標として注目されているこの概念は、アレトスワークスにとっても経営の柱の一つだった。今回の案件は、三年前の震災で甚大な被害を受けた地域に向けて行う継続的な支援プログラムの第三段階だった。
しかし、経営企画部の渡辺の眉間には、微かな皺が寄っていた。
「支援先のNPO法人『みらい復興会』への資金提供額は、年間二千万円を予定しています。これまでの実績を考慮すると、適切な金額設定だと判断しております」
大塚の説明が続く中、渡辺の視線は資料の一点に釘付けになっていた。提案企業の欄に記載された「エース・トランスポート株式会社」という文字が、彼の胸に複雑な感情を呼び起こしていた。
(また、エースからの提案か……)
エース・トランスポート。この大手物流会社は、アレトスワークスにとって特別な存在だった。五年前、同社が深刻な資金繰り難に陥った際、エースは無担保で三億円の融資を実行してくれた。その後も、新規事業への参入支援、販路の開拓、人材の紹介など、あらゆる面でサポートを続けてくれている。
「恩義」という言葉では表現しきれないほどの深い関係がそこにはあった。
「渡辺さん、何かご質問は?」
大塚の声で、渡辺は思考から現実に引き戻された。会議室の全員の視線が彼に向けられている。
「いえ、特に……」
そう答えながらも、渡辺の心の奥底では、ある疑問が膨らみ続けていた。
会議が終了した後、渡辺は自分のデスクに戻ると、すぐにパソコンを開いた。画面に表示されたのは、NPO法人「みらい復興会」の公式ウェブサイトだった。
組織概要、活動実績、財務報告書──。一つ一つを丁寧に確認していく。表面的には、確かに地域復興に貢献している団体のように見える。しかし、財務報告書の支出項目を詳しく分析すると、「事業推進費」という曖昧な名目での支出が全体の四十パーセント近くを占めていることに気づく。
「おかしいな……」
渡辺は眉をひそめた。通常、NPOの事業推進費は全支出の二十パーセント程度が適正とされている。この異常な高さは何を意味するのか。
翌日の昼休み、渡辺は社外の喫茶店で一人の男性と向かい合っていた。元新聞記者で、現在はフリーランスとして調査報道を手がける田中だった。
「NPO法人みらい復興会について、何か知っていることはありませんか?」
渡辺の質問に、田中は苦い表情を浮かべた。
「ああ、その団体なら気になっていたところだ。表向きは復興支援をやっているが、実態はかなり怪しい。理事長の経歴を調べてみると、過去に政治資金規正法違反で問題になった政治団体の幹部をやっていた」
「政治団体?」
「そうだ。しかも、その政治団体は特定の建設会社と密接な関係があった。復興事業の受注に政治的影響力を行使していた疑いがある」
田中の言葉に、渡辺の背筋に冷たいものが走った。
「つまり、復興支援の名目で集めた資金が、実際には……」
「政治活動や利権構造の維持に使われている可能性が高い。もちろん、確たる証拠はまだないが、状況証拠は揃っている」
その夜、渡辺は自宅の書斎で一人、複雑な心境で資料を見返していた。机の上には田中から受け取った調査資料が散らばっている。
(これが本当なら、僕たちは復興支援どころか、不正な政治活動に加担していることになる……)
しかし、同時に別の感情も彼を苛んでいた。
(でも、エースさんには本当にお世話になっている。あの時の融資がなければ、今のアレトスワークスはなかった)
渡辺の脳裏に、五年前の記憶が蘇る。銀行からの融資が断られ、まさに倒産の危機に直面していたあの日。エース・トランスポートの専務、山田が現れて、「困った時はお互い様です」と言いながら融資を申し出てくれた時の感動は、今でも鮮明に覚えている。
その後も、山田は折に触れて「我々の関係は単なるビジネスを超えたものです。家族のような絆だと思っています」と言ってくれた。実際、エースからの様々な支援により、アレトスワークスは順調に成長を続けることができていた。
(山田さんを裏切るようなことは……)
心理学で言う「返報性の原理」。人は他者から何かを受け取ると、お返しをしなければならないという強い心理的圧迫を感じる。この原理は人間関係の基盤となる一方で、時として判断を曇らせる危険性も持っている。
さらに、「一貫性の原理」も渡辺の思考を縛っていた。これまでエースとの関係を「恩義に基づく美しい協力関係」として位置づけてきた彼にとって、その物語に矛盾する情報を受け入れることは、自分のアイデンティティを否定することにも等しかった。
翌朝の定例会議。渡辺は資料を手に席に着いていたが、心は千々に乱れていた。
「昨日お話しした東北復興支援プロジェクトですが、エース・トランスポート様から正式な提案書が届いております」
大塚が新しい資料を配布する。表紙には「地域の絆を深める真の復興支援を」というキャッチフレーズが踊っている。
「素晴らしい取り組みですね」
新入社員の藤川が目を輝かせて言った。入社二年目の彼は、CSRに対する熱い思いを持っている。
「エース様には本当にお世話になっていますからね。こういう形で恩返しができるのは嬉しいことです」
その言葉を聞いた瞬間、渡辺の胸に鋭い痛みが走った。純粋な気持ちで語る藤川を見ていると、自分の疑念が汚れたもののように感じられる。
しかし、田中から得た情報は確かに重要だった。もしその情報が正しければ、彼らは善意のつもりで不正に加担することになる。
「ちょっと待ってください」
渡辺が口を開くと、会議室の空気が張り詰めた。
「この支援先のNPOについて、もう少し詳しく調べてみる必要があるのではないでしょうか」
「調べるって、何を?」大塚が困惑した表情で聞き返す。
「財務の透明性、事業の実効性、そして……組織の健全性です」
渡辺の言葉に、室内に微妙な沈黙が流れた。
「渡辺さん」藤川が静かに、しかし毅然とした口調で言った。「エース様を疑うようなことを言うのは、どうかと思います。あの会社がどれだけ我々を支えてくれたか、忘れてしまったのですか?」
その言葉が、渡辺の心に深く突き刺さった。周囲の視線も、彼に対して冷たくなっているのを感じる。
「恩を忘れた人間になりたくない」──この感情が、渡辺の判断力を麻痺させていく。
会議は結局、予定通りプロジェクトを進めることで終了した。しかし、渡辺の心の中の嵐は収まらなかった。
その夜、渡辺は再び田中と会った。今度は、より具体的な証拠を求めてのことだった。
「やはりあなたは気づいたか」田中が苦笑いを浮かべながら言った。「実は、みらい復興会の理事の一人が、エース・トランスポートの山田専務の義理の弟なんだ」
「えっ?」
「つまり、この支援プロジェクト自体が、最初から出来レースだった可能性がある。復興支援という美名の下で、実際には政治資金と建設利権のマネーロンダリングが行われていた」
渡辺は愕然とした。自分たちが「恩返し」と思って行おうとしていることが、実は巧妙に仕組まれた不正の一部だったとは。
「でも、証拠は?」
「これだ」
田中が取り出したのは、一枚の銀行振込明細書のコピーだった。
「みらい復興会から、山田専務の政治資金管理団体へ、毎月定額の送金が行われている。金額は、各企業からの寄付額に比例している」
この瞬間、渡辺は理解した。エースが各企業に「復興支援」を働きかけるのは、単なる社会貢献ではなく、政治資金調達の巧妙なスキームだったのだ。
しかし、それでもなお、渡辺の心には抵抗があった。
(山田さんは本当に悪い人なんだろうか?あの時の融資は、確かに僕たちを救ってくれた……)
「返報性の罠」と「一貫性の罠」。二つの心理的メカニズムが、渡辺の判断を歪め続けている。
翌日の夜、オフィスに一人残っていた渡辺の元を、代表の松岡が訪れた。
「遅くまで何をやってるんだ?」
「松岡さん……」
松岡は渡辺の隣の椅子に腰を下ろした。
「実は、君が何を調べているか、だいたい想像がついている」
「え?」
「山田さんとみらい復興会の関係だろう?」
渡辺は驚愕した。松岡も同じことに気づいていたのだ。
「なぜ何も言わなかったんですか?」
松岡は深くため息をついた。
「俺も君と同じ葛藤を抱えていたからだ。エースには本当に世話になった。山田さんは確かに僕たちの恩人だ。でも……」
松岡が立ち上がり、窓の外の夜景を見つめながら続けた。
「昔、俺の師匠がこんなことを言っていた。『善意が悪用される時、最も罪深いのは悪用する側ではなく、それに気づきながら目を瞑る側だ』と」
「師匠?」
「前の会社の社長だった人だ。その人も、取引先との義理と正義の間で悩んでいた。結局、正義を選んだがために会社は傾いた。でも、最期まで『それでよかった』と言っていた」
松岡が振り返る。その目には、深い決意が宿っていた。
「渡辺、君は心理学の『返報性』と『一貫性』という概念を知っているか?」
渡辺は頷いた。
「返報性は、受けた恩を返したいという自然な感情だ。しかし、それが過度になると、判断力を失わせる。一貫性は、自分の過去の選択や信念と矛盾する情報を拒絶する心理だ。この二つが組み合わさると、人は『誘導された正義』に陥る」
「誘導された正義……」
「そうだ。自分では正しいことをしていると信じているが、実際には他者の都合の良いように操られている状態だ。山田さんは確かに恩人かもしれない。でも、その恩義を利用して不正に加担させようとしているなら、それは真の友情ではない」
松岡の言葉は、渡辺の心の奥深くに響いた。
「でも、もし僕たちがエースとの関係を断ち切ったら……」
「確かにビジネス上の影響はあるだろう。でも、不正に加担することで得られる利益に、本当の価値があるだろうか?」
その夜、渡辺は一つの決断を下した。翌朝の会議で、彼は調査結果を詳細に報告することを決めたのだ。
翌日の緊急会議。渡辺は手に汗握りながら、プロジェクターに資料を映し出した。
「皆さん、みらい復興会について重要な事実が判明しました」
会議室に緊張が走る。渡辺は深呼吸をして、続けた。
「この団体は、表向きは復興支援を行っていますが、実際には政治資金の迂回ルートとして機能している疑いがあります」
詳細なデータと証拠を示しながら、渡辺は説明を続けた。出席者の表情は次第に厳しくなっていく。
「つまり……私たちの善意が、不正な政治活動に利用されている可能性が高いということです」
会議室に重い沈黙が流れた。
「でも、エース様は……」藤川が震え声で言いかけた時、松岡が口を開いた。
「恩義と正義は別物だ。山田さんへの感謝の気持ちは変わらない。しかし、それと不正への加担は全く別の問題だ」
最終的に、プロジェクトは中止となった。代わりに、より透明性の高い別の復興支援団体への支援を検討することになった。
その決定から一週間後、山田専務がアレトスワークスを訪問した。彼の表情は、これまで見たことがないほど冷たかった。
「松岡さん、我々の長年の関係を、こんな形で終わらせるのですか?」
「山田さん、私たちは今でもエース様に感謝しています。しかし、不正な活動には参加できません」
「不正?証拠もないのに、そんなことを……」
「証拠はあります」渡辺が静かに言った。「そして、山田さんご自身が一番よくご存知のはずです」
山田の表情が一瞬揺らいだ。しかし、すぐに元の冷たい表情に戻った。
「分かりました。しかし、これまでの関係は終わりです。今後、一切のお取引はお断りします」
山田が去った後、オフィスには重い空気が流れた。確かに、大きな取引先を失うことになる。しかし、渡辺の心には不思議な清々しさがあった。
「後悔していないか?」松岡が聞いた。
「いえ。むしろ、『誘導された正義』から解放された気がします」
数ヶ月後、みらい復興会をめぐる政治資金問題が新聞で大きく報道された。アレトスワークスがこの問題に巻き込まれなかったことで、逆に企業としての信頼性は大きく向上した。
渡辺はこの経験から、重要な教訓を得た。真の正義とは、他者への恩義や過去の関係に左右されない、客観的な倫理基準に基づいた判断だということ。そして、「返報性」と「一貫性」という心理的メカニズムが判断を歪ませる危険性についても、深く理解することができた。
企業経営において、感情と論理、義理と正義のバランスを取ることは永遠の課題である。しかし、その課題に真摯に向き合うことこそが、真の企業価値を創造する道なのかもしれない。
■学びのまとめ
今回のテーマは、「返報性 × 一貫性」。
-
「恩を返すべきだ」という心理は、美徳に見えるが、正しい判断を曇らせる危険性がある。
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一度行った選択を貫こうとする「一貫性の原理」が働くことで、「そのまま突き進むこと」が正義のように錯覚される。
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ビジネスでは、義理と正義の線引きを明確にする判断力が必要。
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感情に流されず、事実に基づいた検証をすることが、組織の信頼を守る鍵となる。
■行動チェックリスト
チェック項目 | 状況 |
---|---|
[ ] 「恩」が判断を歪めていないか確認している | □ |
[ ] 決定を下す際に、根拠と事実を再検証している | □ |
[ ] 一度の判断に縛られず、軌道修正を恐れない姿勢がある | □ |
[ ] 自社のCSRや社会貢献活動が本当に目的と合っているか見直している | □ |
■次回予告
第8話「偽りの証言」
SNSで拡散される“第三者の声”が、企業の命運を大きく左右する。
だが、その証言は、本当に“中立”なのか――?
好意と社会的証明の交錯が、新たな罠を生む。
乞うご期待。
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