インフルエンス ―仕掛けられた選択― 4話

ビジネス心理学

🔹前書き:この物語があなたに届けたいもの

「一度YESと言ってしまったら、もう引き返せない」——あなたにも、そんな経験はありませんか?

それは“コミットメントと一貫性”という心理の作用。 この連載シリーズ「インフルエンス ―仕掛けられた選択―」では、ロバート・B・チャルディーニの名著『影響力の武器』で紹介された6つの心理原則を、リアルなビジネスストーリーを通して学んでいきます。

第4話のテーマは【一貫性】—— 最初の“小さなYES”が、あなたの行動をどれほど縛るのか。


第4話:イエスの連鎖

冬の足音が、ひたひたと背後から忍び寄ってくるようだった。

赤坂の空気は張りつめ、街路樹の葉はすでに色褪せ、吹き抜ける風がコートの隙間から忍び込んでくる。そんな中でも、駅前の雑踏には人の気配が絶えなかった。誰もが目的地へ急ぎ、光と音の中に埋もれていた。

N-BASE赤坂店の店内も、クリスマス仕様に模様替えされ、ツリーとライトで華やかに彩られていた。

斎藤美咲は、背伸びをしながらツリーの一番上の飾りを取り付けていた。白いマスク越しでもわかるほどの集中した表情。その姿に、渡辺拓也は少しだけ目を細める。

「ねえ渡辺さん、イベント、何かやらないんですか?」

脚立を降りながら美咲が言った。

「イベントって?」

「例えば、店頭アンケートに答えてくれた人に、ちょっとしたクーポンを渡すとか。それで再来店してもらえたら……」

一見、どこにでもあるような販促案だった。しかし渡辺の脳裏には、ある言葉がよぎっていた。

“フット・イン・ザ・ドア”——

大学時代のマーケティング演習で、一度だけ教授が口にしたことがあった。

『小さなYESを引き出せば、大きなYESも取りやすくなる。ドアに足を入れさえすれば、次のドアは開けやすい。』

そんな言葉だった。具体的な事例はもう記憶が曖昧だったが、なぜか、その論理構造が妙にリアルに思えた。

「……やってみようか」

渡辺は、思い切るように言った。

その日から、“ミニアンケートキャンペーン”が始まった。

入口に立つスタッフが「30秒だけいいですか?」と通行人に声をかけ、簡単な3問のアンケートに答えてもらう。協力者には割引券かオリジナルシールを手渡す仕組みだ。

最初は反応が鈍かった。だが、1時間も経たないうちに状況が変わり始めた。

一人が足を止めると、その後に続く数人も足を止めた。

「気軽に答えられるし、ちょっと得した気分になりますね」

笑顔を浮かべた女性がそう言いながら、アンケート後にふと並んだ商品の一つを手に取る。

それを見た別の客も、同じものを手にした。

“他の人が買っているものは良いものに違いない”

無意識のうちに流れる連鎖。渡辺はレジカウンターの奥からその様子をじっと観察していた。

「……これが、社会的証明ってやつか」

思わずつぶやいた。

2週間後、数値がその仮説を裏付けた。

再来店率は急上昇し、アンケートに答えた客のうち、実に4割がその場で商品を購入していた。そして、その中の3割以上が翌週にも店を訪れていた。

何が人を動かしているのか。渡辺はその因果を考えていた。

その夜、在庫整理をしていた美咲が話しかけてきた。

「これって……最初に“はい”って言ったことで、買わなきゃって気持ちになるのかな」

「……人間って、そう簡単に“違う自分”にはなれないんだよ」

言ってから、自分自身の過去が浮かんだ。

数年前、まだN-BASEに入社する前のことだ。

かつての上司、南雲の計らいで紹介されたある勉強会に、軽い気持ちで参加した。最初は断る理由もなかったから、YESと言っただけだった。それが、連続セミナーへと続き、気づけば自主的に週末も時間を費やすようになっていた。

「……自分でも、気づかないうちに流されてたんですよ」

そう口にして、渡辺は美咲の顔を見た。

彼女は静かにうなずいた。

「一貫性って、怖いですよね。  一度“好きだ”って思ったら、あとはその気持ちを守るために自分を縛っちゃうというか……」

「人って、変わることより、同じでい続けることのほうが、楽なんだよ」

「でも……変わりたい時もありますよね?」

渡辺は言葉に詰まりかけたが、ゆっくりと応えた。

「うん。だからこそ、“最初のイエス”を何にするかが、すごく大事なんだと思う」

その会話の余韻が残る翌日、ある老婦人がレジ前に現れた。

「この前、アンケートに答えてクーポンもらった者ですけど……なんだか、断れなくなっちゃって」

「……どういう意味ですか?」

レジを担当していた美咲が問い返す。

老婦人は、笑みともため息ともつかない表情でこう言った。

「こんな小さな店に何度も来るなんて、若い子に笑われると思ってたの。でも、つい足が向いてしまって……不思議ね」

その言葉は、渡辺の胸に深く刺さった。

誰かの“小さなYES”が、いつの間にか行動を縛ってしまう。

夜、閉店後の薄暗いオフィス。

蛍光灯の明かりがひとつ切れていて、天井からぶら下がる照明が微かに揺れていた。

静かな空気の中、美咲が言った。

「自分が最初にした選択に縛られるって……まるで、騒がしくない鎖ですね」

渡辺はしばらく沈黙し、ふと口を開いた。

「……静かな騒音、だな」

美咲はその言葉に微笑みを浮かべ、パソコンを閉じた。

その夜、渡辺は羽田にメールを送った。


件名:イエスの連鎖について

貴社でのマーケティング論、少し理解できた気がします。 ただ、使い方を間違えると、人を縛る“鎖”にもなりかねませんね。

正しい“イエス”の導き方を、これからも考え続けてみます。

返信はすぐに来た。

「一貫性」は、信頼構築の剣にも、束縛の鎖にもなる。 君は、どちらを選ぶ?

その問いに、渡辺はじっとPCの画面を見つめていた。

そして、静かにキーを叩いた。

📘【学びのまとめ】——「一貫性」

  • 人は「一度選んだ自分の選択」に対して、以後も一貫した行動を取ろうとする傾向がある。

  • 小さな“イエス”を引き出すことで、大きな承諾に導く技術が存在する(フット・イン・ザ・ドア)。

  • 一貫性は信頼の証にもなるが、不自然な同調や依存も生みかねない。

  • 最初の“イエス”は慎重に選び、相手の意思を尊重することが重要。


✅【行動チェックリスト】

チェック項目 状況
[ ] 相手に“小さなお願い”をして、自然に関係性を築く工夫をしているか?
[ ] 自分が何度も「同じ行動」をしている理由を、客観的に見直したことがあるか?
[ ] 「一貫していること」が目的化していないか?(変えるべきタイミングを逃していないか)
[ ] 相手の“イエス”が本当に納得の上で出たものか、振り返っているか?

🔜次回予告:第5話「好意の裏にある動機」

笑顔、親切、そして共感—— その“好意”は、誰のためのものか? 人が「好き」に弱くなる瞬間を、渡辺が体験する。

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